たまたまな日々・自分の中に泉はあるか
日記をつけています
8月いっぱいは毎日日記をつけようと思っています。どうしてそのように考えたかは8月1日の the letter に詳細〜。
以下、8月29日の日記。
重ための朝
朝からベッドの中で、嫌いな人のことを思い出してつらつらむんむんと考え続けてしまい、どーにかあの人たちが恥をかいたり、痛い目に遭ったりしたりしてくれないかなと思った。
しかし、こんな陰湿なことをいつまでも考えていても仕方ないので、起きて、郵便局へ行って苦手な郵送作業を済ませ、近所の行ったことのないカフェでアイスコーヒーを飲み、新聞が置いてあったので目を通し(読売だった)、X(旧ツイッター)で目にした外国人排斥の投稿を思い出して凹み、帰りにスーパーでパンやキムチを買った。
それでもまだ気持ちが変わらなかったので、変わらなかったというか、さらにそこに将来への不安が乗っかり、1年後に1億円手に入れていたいとか、年金のこととりあえず考えたくないとか、願望と煩悩と不安の混ざったもので頭がいっぱいになってしまい、こういうときはノートに書き出そう、このもんもんを、誰にも見せないノートに吐き出そうと思ってノートと鉛筆を持ってまた別のカフェに来たものの、全然書けない。
まず嫌いな相手の名前すら書けない。なんか呪いみたいに感じてしまって、こわくて書けない。名前がこわいのではなく、名前を書く行為を自分がしちゃうことがこわい。あと、その人が恥をかけばいい!とか願望を書いちゃえばスッキリすると思ったのに、これもまた書けない。
ならばポジティブにバケットリスト(死ぬまでにしたいことを書き出すリスト)を、と思ったけれども、それもできない。以前バケットリスト用のノートを購入して、でもそれに書く前にまず下書きをして洗い出してからと思っているのだが、書けない。なんか恥ずかしくて。
前から薄々気づいていたけれど、私は人に見せない前提でものを書くことができない。職業病なのかもしれない。人に見せない書き物があるとしたら買い物メモとタスクリストぐらい。
誰かに見せる前提のほうがサッと書ける。現にこうして書いている。なんなんだろう。誰かに見せるものを書くのは恥ずかしくないのに、誰にも見せないものを書くのは恥ずかしいという、この気持ち。
人前で踊る前提じゃないと動けないのだろうか。人の反応を意識して初めて筆が動くとは、私とは、私の本心とはいったいなんなのか。ふと、「人生は他者だ」という映画『永い言い訳』の中の言葉を思い出す。
悲しい気持ち
ちょっとだけ嫌いな人の話をしてもいいですか?
嫌いな人のひとりは、以前はお茶に行ったりしたこともあったのに3年ほど前から現場で会ってもツン!って感じで無視してくるライターの人だ。
無視されてると気づいたときは凹んだが、無視という幼稚なやり方でその人がこちらへ敵意を示そうとしていることがそれ以上にショックだった。もっと誇り高い人だと思っていた。あなたの大事なお子さんが学校で理由もわからず無視されてたらどんな気持ちよ、と言ってやりたいと思った。