たまたまレビュー#43『よみがえる声』
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たまーに、昔読んだ本について書くこともあります。
今週の一本
▼『よみがえる声』(監督:朴壽南、朴麻衣(共同監督))
簡単なあらすじ
映画作家である朴壽南(パク・スナム)が40年間撮りためたフィルムに、娘の麻衣が光をあてる。パク・スナムは、1958年の小松川事件で死刑囚となった少年を支援し、少年との書簡集を出版してベストセラーとなった。その後、「ペンをカメラに替えて」原爆被害に遭った朝鮮人、長崎の軍艦島に連行された徴用工、沖縄戦の朝鮮人元軍属、日本軍の「慰安婦」にされた女性たちを次々に取材し、映像に記録する。彼らは虐殺を生き延び、殺戮を目の前で見た証人でもある。
小松川事件
ヤンヨンヒさんが激推ししているのをSNS見て、これは絶対見なければと思っていたのだが、本当に見て良かった。小松川事件からして、私は知らなかった。
在日朝鮮人で、朝鮮部落の中でも特に貧困な家庭で育った少年・李珍宇(イ・ジヌ)が、東京・小松川で女子高生を強姦目的で殺し、捕まった後で別の女性の殺人も自白して死刑判決を受ける。
日本に暮らす朝鮮の人々は、これでまた差別が強まると沈黙する。パク・スナムは当時イ・ジヌを支援する一方、被害者・太田芳江さんの両親にも会いに行き、「朝鮮人の一人として」お詫びした。
太田さんの両親はそこで思いがけない話をする。関東大震災のとき、このあたりではたくさんの朝鮮人が殺された。私たち日本人はそのことを朝鮮人のみなさんにお詫びしたことはない。けれど自分たちの娘が殺されたと知って、多くの朝鮮人がお金を送ってくれたり、謝ってくれる。「私は犯行自体は憎むが朝鮮人の方々には何ら悪感情をもっていない」。
死刑判決には当時、大岡昇平ら文化人が減刑運動を行ったが、1962年に執行。その日、パクさん親子が太田さんの母を訪ねると、彼女はイ・ジヌの母に会いたいといい、そのまま会いに行く。太田さんの母は、イ・ジヌの母に「私たち日本人はまた朝鮮の人を殺してしまった」と言ったという。
映画の中で小松川事件のエピソードが語られ始めたとき、私は若干警戒心を覚えた。イ・ジヌは、少年時代、明るく頭が良かったという。朝鮮人であることを理由に就職を断られ自殺未遂をして、変わっていく。彼は金子鎮宇(かねこ・しずお)と日本名を名乗り、日本人であろうとした。そうでなければ生きていけなかったからだ。けれどそういった「加害者」の背景を聞かされるのは、「被害者」にとって苦痛にしかならないことを私は性暴力の取材を通してよく知っている。この事件は、殺人であり、性犯罪である。
この事件が映画の中でどう展開していくのか。少し心配しながらスクリーンを見続けたら、私の想定をはるかに超える「加害者」と「被害者」の対話がそこにあった。
もし2025年の現代にこんな事件が起こったら。ネット世論がどうなるのかは想像に難くない。
私は「加害」と「被害」の両面から性暴力を考えるシンポジウムを、弁護士さんや臨床心理士さんと共に企画していたことがあるが、「なぜ加害者の声を聞かなければならないのか」という反発は幾度か聞いた。性暴力の加害者の声は、もう社会に浸透して、みんな聞いているではないかというのである。「隙を見せた被害者が悪い」「女が悪い」という形で。それは実際にそうだった。
小松川事件の背景には、日本人による朝鮮人への苛烈な差別がある。しかしだからといって人を殺していいわけではない。イ・ジヌは、鬱屈の行き先を自分より力の弱い女性に向けた。そのことが許されていいわけがない。
ここでパク・スナムとイ・ジヌの往復書簡に思いを巡らせる。『罪と死と愛と』というタイトルで書籍化されベストセラーとなった。
この中には、パク・スナムとの対話で自分が朝鮮人であるというアイデンティティを取り戻すことによって、「ヴェールを通して」のようにしか感じられていなかった自分の殺人行為を実存として認識するに至るイ・ジヌがいる。
現在でも自暴自棄ゆえに重大な犯罪を犯す成人や少年がいて、彼らが裁判などでまったく反省を見せない様子があることを私たちは知っている。そのような人に、どのようにして罪の重さを伝えればいいのか。イ・ジヌのケースはひとつの答えである。
パク・スナムの罪の自覚は、少年ゆえの素直さもあったかもしれないが、被害者の両親たちが口にした「背景への理解」なくして、それはあり得ただろうか。
もちろん誰も、「被害者」に対して「加害者」への理解を要請することはできない。だからこそこれが稀有なケースに思える。戦後に起こった虐殺の記憶がまだ社会の中に残っていたからこその邂逅であるようにも思う。差別と虐殺の記憶は薄れていくからこそ記録が必要であるけれども、その記録もまた消されたり、忘れたい力、忘れようとする本能によっても埋もれていく。残る証言は一握りしかないけれど、その一握りが、これほど人の胸を打つ。
※以下に、凄惨な殺人の描写があります。
虐殺の記憶
1910年から始まる植民地支配で、日本がどのようなことをしたか。「堤岩里(チェアムリ)虐殺事件」の唯一の生存者、チョン・ドンネは語る。
「日本人たちが銃刀を持ってやってきた。この前の発安市場ではあまりにひどい仕打ちをしたので和解に来た、15歳以上の信徒は礼拝堂に集まれと」。集まった人は銃殺され、礼拝堂は焼かれた。
「結婚して3ヶ月のカン・テスンが、夫が礼拝堂に連れて行かれたと泣いている。すると憲兵の一人が刀を抜いてその若妻の首を斬った。一回で首が落ちず、また3回刀を振り下ろすと、首が落ち、血が溢れでました」
筑豊の豊州炭鉱へ徴用された在日一世のアン・ヨハンは、一緒に働いていた13〜14歳の少年が落盤事故で死んだとき、現場監督の日本人が坑内に降りてきて「石炭がもったいない。炭を先に、死体は後で運べ」と言ったことを覚えている。徴用工は炭以下の扱いだった。
戦争末期のサイパンでは、スパイ容疑を着せられた2人の朝鮮人が銃殺された。これを目撃した沖縄の有銘政夫は、2人は殺される前にスパイでない証明として「せめて死ぬ前に天皇陛下万歳を三唱させてほしい」と言ったのを聞いたという。
すべて、パク・スナムが取材し、カメラの前で語られた証言である。
私は映画を見ながら、知人のある男性のことを考えていた。