たまたまな日々・2024年夏至の日

プンスカしてる
小川たまか 2024.06.21
読者限定

 更新するつもりはなかった。

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 大好きな夏至の日にこんな話題を書きたくないのだけれど、例の選挙ポスター。まだご存じない方に説明すると、都知事選に立候補したある男性候補者が、ほぼ全裸の女性の画像を選挙ポスターに大きく掲載した。女性はSNSなどによればモデル活動の経歴がある人。ポスターは何パターンかあり、全裸の女性がM字開脚し、乳首と性器に男性候補者の顔写真が貼ってあったり、「売春合法化」と書いた文字の横で女性が尻を突き出し、局部付近に男性候補者の写真が貼ってあったりするものだった。

 候補者は「表現の自由」への挑戦だと嘯いたが、警察が迷惑防止条例違反で「警告」を出すと、すぐに撤去すると決めたそう。

 この男性立候補者は、昨年の初め、Colaboが運営するバスカフェに迷惑系YouTuberらとともに現れて暴言を吐いた人物。5月にはなぜか朝日新聞が好意的に記事に取り上げたが、抗議が殺到して結局取り下げられている。元朝日新聞記者の南彰さんの最新刊『絶望からの新聞論』では、朝日新聞危機管理部門は当初「一部のジェンダー系の人が騒いでいるだけ」「記事を取り下げたら(この人物から)訴えられる」と、批判への対応に消極的だったエピソードが書かれている。

 いつも馬鹿馬鹿しく、そして腹立たしく感じるのがこういうことに「表現の自由」という言葉が使われることだ。

 本当にこの人物が「表現の自由」を訴えたいのであれば、警察から警告を受けても取りやめないだろう。それにタブーを破りたいのであれば、女の体を使わず、この男性候補者自身が全裸M字開脚や尻突き出しポーズでポスターに出ればいい。女の体に性的な意味がつけられることなど珍しくなく、コンビニの本棚でも行われている。男の体に性的な意味がつけられ、公共の場に貼り出されることがタブーなのは「男の体より女の体の方が美しいから」ではなく「異性の裸体を眺めたい欲望を持つ女性が男性より少ないから」でもなく、「男の屈辱的な姿が公にされるなどあってはならない」という「自主規制」からである。世の「モラル」や「倫理」ですでに抑圧されているのは、シスヘテロ男性の前で男性の体に性的な意味づけを行うことである。

 「表現の自由」とは公権力からの規制に抗うもので、市民の批判や民間企業の判断は「表現規制」でも、権力の圧力に屈することでもない。にもかかわらず、ここ何年もの間、「表現の自由」という言葉は市民の上げた声に対して向けられてきた。その区別がつかない人がSNS上には多過ぎた。

 そして今回、警察からの「警告」という、実際の公権力からの規制が行われたとき、「表現の自由」立候補者はすぐにポスターを撤回した。彼らがしたいのは女への嫌がらせで、「表現の自由」への挑戦や公権力への闘争では決してない。

 この人ではないが、立候補した56人中、出馬にあたって唯一顔写真を提供しなかった候補者についてはもう触れたくもない。耐えきれず怒った人の言葉尻を捉えてまた訴訟を仕掛けることを計画しているのではないかとも思う。あるいは来月出る予定の民事訴訟判決からの話題そらし。

 散々な状況を見て、「日本から出たい」とつぶやいている女性や、「娘を日本で育てたくない」という男性の投稿を見た。出られる女性は一刻も早く脱出した方がいい国、ジャパン。

 私は今回のこの都知事選の惨状は、Colabo叩きの際に「女、子どもの被害なんて大したことないだろう」とばかりにほとんど黙殺していたメディアにも責任があると思っている。前出の朝日新聞記事が出た際には、炎上する前に政治部の男性記者たちが盛んにこの記事を拡散していた。彼らはバスカフェ攻撃の場で何が起こっていたのかなんて、知ったこっちゃなかったんだと思う。なんとなく気づいているけれど、自分の方へは来なさそうな「揉めごと」だし、どうせちっちゃいちっちゃい話題。あのとき、Colabo関係者が助けを求めた警察官たちは弁護士が抗議しても全く対応せず、「何をしてほしいの?」と意地悪く言い捨てる警察官さえいた。ああいうのを政治部記者たちは問題だと思わないのだろうか。政治の問題だとは思わないのだろうか。そんな風にスルーされているうちに、嫌がらせはネットや歌舞伎町を出て、選挙の場にまで及ぶようになった。いま彼らは何を思っているんだろうか。

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